Trans Princess水は昔を憶えている   「カスリーンの幻影」(その2)…☆

水は昔を憶えている   「カスリーンの幻影」(その2)…☆

2016–08–28 (Sun) 16:53
前回の記事の続きです。

お話はカスリーン台風のご紹介から始まり、
そこから歴史を紐解き、利根川の東遷、明治43年大水害の入口まで来ました。
まずはウィキペディアで、明治43年大水害をさらっと学習☆

明治43年の大水害

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明治43年(1910年)8月5日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、関東地方における被害は、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に及んだ。最も被害の大きかった群馬県の死者は283人、行方不明27人、家屋全壊流出1,249戸に上り、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年}の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになった[2]。東京でも下町一帯がしばらくの間冠水し、浅草寺に救護所(現、浅草寺病院)が造られた記録が残っている。
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この時の侵水域がこれまた広い。

荒川の歴史
000032447.jpg

埼玉県の平野部分が殆ど浸水ですね…
この水が東京の下町に押し寄せ、大きな被害をもたらしたのです。
それでもこの時は主に浸水源は荒川の水です。
利根川の水は、江戸川へ流入する水を関宿水門を閉じて制限した為、
江戸川からの氾濫・決壊が無かったのは幸いでした。
もっとも、そのおかげで水は全部銚子方向へと流れる事になり、
利根川下流地域の洪水の被害を、より一層深刻化させたのですが…

この時の災害を教訓に、東京の下町を水害から守るため、
荒川放水路が開削され、昭和5年(1930年)に完成しました。

…そんな放水路、東京のどこにあるのですかと聞かれそうですが、
これですよ☆

arakawahousuiro-1.jpg

東京の地理に詳しくない方でもわかる例としては…
ディズニーランドへ行く時、東京駅から京葉線に乗ると、
やがて地上へ出て新木場駅に停まります。
新木場駅を出て右手に海を見ながら長い鉄橋を渡り、次の葛西臨海公園駅へ向かいますよね。
あの時渡る川が、旧「荒川放水路」なのです。
あれだけの幅と河川敷を擁する川は、実は全くの人工物で、
この水害からの復旧・治水工事の一環として造られた物なのです。
今は単に「荒川」と呼ばれていますけれどね…☆

その名残は地図のあちらこちらに見られます。
例えば、これ…☆

horikiri.jpg

荒川をはさんで、東武鉄道堀切駅と、京成電鉄堀切菖蒲園駅があります。
堀切(葛飾区)のウィキペディアによると
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葛飾区西部、荒川東岸の低地にあたり、対岸は北から足立区、墨田区に接する。町域の北は小菅および西亀有、東は東堀切および宝町、南は四つ木に接する。
町の中央を東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)が南北に横切っている。この平和橋通りと京成本線が交差するあたりに堀切菖蒲園駅がある。実際の菖蒲園は、この地点より南西に約10分ほど歩いたところにある。
菖蒲園のある綾瀬川沿いには首都高速中央環状線が通っており、菖蒲園の北300メートルほどに堀切ジャンクションがある。ここはかつて、堀切橋(旧橋)が架かっていたところである。
テレビドラマ『3年B組金八先生』や『親子ゲーム』のロケ地であった東武伊勢崎線堀切駅周辺は、荒川対岸の足立区千住曙町にある。大正年間に荒川が開削される前は地続きであった。また、堀切駅自体も現在より東にあったが、開削予定地に当たったため現在地に移動した。なお移動前は花菖蒲の名所、堀切園(現・堀切菖蒲園)の最寄駅であった。現在では葛飾区と堀切駅周辺とは荒川上流の堀切橋を利用し、約1km迂回しないと往来できない。
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なるほどねえ…って感じでしょう?
そういう地名は、探せば全国に散らばっていそうですね。


さて、荒川放水路の開通の翌年、昭和6年(1931年)に、満州事変が勃発。
日本は長く苦しく、そして悲惨な、戦争への道を歩み始めます。
そしてやがて…

昭和20年8月15日 玉音放送
昭和20年9月2日  ミズーリ号艦上で降伏文書調印

平和はやって来ましたが…
当時の東京の空襲被害は甚大な物でした。

f56cb271.jpg

「橋淀」「原荏」「田蒲」「黒目」「立足」などと読まないように。
既に戦後とは言え、この時はまだ右から読む時代の地図ですから…☆

荒川の右岸(今の千住や墨田区、江東区など)は一部を除き、殆ど焼失していました。
逆に左岸は、ごく一部を除き空襲は無かったのです。
この頃は下町が焼け野原だった事もあり、外郭部へ住む人々が増えたため、
戦前に比べて人々の通勤距離が、大幅に伸びていたそうです。
一方で電車やバスは空襲の被害で数が足りず、大混雑の状況。

荒川左岸もそうした人々が移り住み、人口が増えていたそうです。
そんな戦争終結から2年余りの、昭和22年(1947年)9月。
カスリーン台風はやって来ました…



さて、ここで冒頭にお話しした、当時の埼玉県北埼玉郡東村へと、
わたしと一緒に、時空の旅に出ましょう…☆

kathleen1.jpg

kathleen2.jpg

ご覧の様に決壊地点は、渡良瀬川との合流点の約2.7キロ手前です。
ここでは二つの流れがぶつかり、流れが滞るのは当然です。
地図上方に見える渡良瀬貯水池は、当時はまだ規模がもっと小さく、
既に満水だったと思われます。
と言いますか、戦中戦後の食糧不足の為、
遊水地を開墾して、畑にしてしまったらしいのです…☆

その為渡良瀬川からの水は全量、容赦なく流れ込んできます。
おまけにその下流には東北本線利根川橋梁と国道4号線利根川橋があり、
その橋脚に引っ掛かる流木などで、更に流れは滞っていたと思われます。



ここは前回の「利根川東遷」でお話しした様に、もともと水が流れていた場所では無い「新川通」。
ここで前方からの圧力と、後方からの圧力に押されることになった時、水はどうしたのか…?

東遷のお話の時の地図を思い出してみて下さい。
嘗て新川通が無かった頃は、水は浅間川を通って、江戸湾方向に流れていました。
その浅間川は、どうもこんな感じだったようです…

kathleen5.jpg


浅間川とは?
↑こちらのHPさまでも、浅間川の正確な位置は分からないとおっしゃっておられますが、
 記念碑が宇宙科学館のそばにあるそうです。

img_2.jpg

これは確かに、藪蚊が多そうですね…あのシマシマのやつ☆

img_4.jpg

「利利根川は羽生市川俣で締め切られたあと、大越地区外野と大利根町との境で南にカーブし、現在の古利根川(浅間川)筋を南に流れていた。元和7年江戸幕府直轄地を支配していた伊奈忠次は浅間川を締切り旧原道村から東へ新しい川を掘り、利根川の本流を渡良瀬川に合流させたので、古い河道はとなった。このときの堰堤址が60mにわたって残っており、埼玉県の史跡に指定されている。」

そう、かつて川の流れは、ここから南へ転じていたのです。
しかしその場所は、もうとうの昔に塞がれていて、周りよりも補強されていた事でしょう。
そこで水の選んだ「脱出口」は、約3.3キロ下流の決壊地点だったのでしょう。
ここからまた、ウィキペディアからの引用です。

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カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市[大利根地域・北東部])での利根川堤防の破堤である。この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ばれる直線河道であり、「明治43年の大水害」の時には破堤しなかったため、比較的楽観視されていた場所であった。
しかし実際には上流の遊水地帯が開発によって消滅しているなど、「明治43年の大洪水」当時とは状況が変化しており、利根川の水は全て新川通に集中することになった。それに加え、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
こうした要因によって、15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに北埼玉郡東村の利根川右岸提が 340m にわたって決壊。濁流は南に向かい午前3時には北葛飾郡栗橋町(現在の久喜市[栗橋区域・北部])、午前8時には南埼玉郡鷲宮町(現在の久喜市[鷲宮区域・西部])、午前10時には北葛飾郡幸手町(現在の幸手市中心部付近)、午後1時には南埼玉郡久喜町(現在の久喜市[久喜区域・中心部付近])に到達する。濁流の進行速度は決して早いものではなかったが、濁流がどこに流れるか、どこに避難するべきかという情報に乏しかったため、避難はスムーズに行かなかった。
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昭和22年9月16日午前0時過ぎ、340mに渡って堤防が決壊。
水は田畑や町を飲み込みながら、南下をつづけます。
こちらに当時の侵水域を表した地図があります☆

000020171.gif

最終的には東京湾の近くまで達する事になるのですが…
この流れのコース、そっくりではありませんか?
もう一度、東遷前の利根川の地図を見ましょう。

keiido_tonegawa011i.jpg

そう、行き場を失った水は、遠い昔に流れていた記憶を辿って、
浅間川-古利根川or庄内古川が嘗てあった場所を、流れていったのです…

文字通り、「水は昔を憶えている」のです。
正確にいえば、地形が大きく変わらない限り、水は昔の通りに流れる…でしょうね☆

でもね、わたしは水にも意思があり、悠久の地球の歴史の中で、
何度も何度も山から川へ、川から海へ、海から空へ、空から山へ…
それを数え切れないほど繰返してきた水は、ちゃんと出口を知っていたのではないか…
そんな気もするのですよ。


悪い事は重なる物です。
新川通堤防決壊と同じ頃、今度は利根川の対岸、
埼玉県北埼玉郡北川辺村(現在の埼玉県加須市北川辺)の三国橋付近で、
渡良瀬川右岸が決壊し、濁流が村を襲います。

kathleen3.jpg

二つの川に囲まれたV字地形の北川辺の水深は6.5mにも達し、
人々はまだ無事だった部分の堤防へ避難したようです。



こうなると現場一帯は大混乱し、もう手の打ち様がありません。
利根川右岸から水は、南下を始めます。


この9月16日未明に決壊して溢れ出した水は、
16日深夜には杉戸町(東武動物公園のある辺り)、
17日深夜には春日部町(市に昇格するのは、7年後の昭和29年)、
18日深夜には東京都県境の北方にまで迫ります。


勿論、政府や地方自治体、GHQもこの事態を重く見て、
出来る限りの対策を取った筈なのですが…???



(また長くなったので、次回へ続く…です☆)

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